一般文学部生の徒然草

一般文学部大学生があることないこと語ります

「花瓶」

僕はこの一文を見ると気持ち悪くなります。

 

「花瓶が落ちたので、割れた。」

 

僕の友人が美術部の展覧会に出していたものの中に『論理』とかなんとかいう映像作品がありました。高速で回転する紙皿の上に、吊り下げられた紙コップから滴り落ちる青い絵の具。それを延々と繰り返す。文章にしてもわかりませんね。わかりません。

 

美術部の作品の脇には、製作者の想いが詰まった解説が用意してあります。練り上げられた難しい内容だったので省略するのは申し訳ないけれど、簡潔に言うなら「この世は論理が支配していて、それをぶち壊したかった」と。意味がわかりません。

 

「論理」って言葉、みなさんはどう思います?僕はその作品を見て以降漠然と違和感を感じているんですよね。

 

「花瓶が落ちたので、割れた。」

 

上の一文は非常に論理的なものです。原因と結果が明示してある。接続詞「ので」がこの事象を見事なまでに説明している。

 

でもこれもともと2つの別々の事象なんですよね。「花瓶が落ちた」ことは「花瓶が割れた」ことの原因なの?時間軸はねじれていないの?そもそも割れたのは本当に「花瓶」なの?

 

「ので」という言葉が無ければ全く別の事象であるはずの2つの事象が強制的に一緒くたになっている。「ので」という言葉の持つ意味合いがあらゆる可能性を、想像性を奪っている。

 

自分で書いていても意味がわからないけれども、おそらくこの感覚は間違いじゃないとそう思います。

 

例えばこれを書いている僕が今ここで死ぬようなことがあったとして、その原因が交通事故に「見える」と致しましょう。

 

「車に当たったため、大学生が死亡した。」

 

事故を報道する新聞なんかはそんなふうに記事を書くわけです。死因としてはごく一般的、当たり前の光景。だってそりゃ交通事故だもん。

 

でも現実はそんなに甘くありません。僕の死因は事故というよりは自殺だった。僕の死因は心臓麻痺だったし、あるいは昨日食べた生の鶏肉による食中毒だった。僕の死因は宇宙人が僕を狙ってピンポイントで放った光線だった。車に当たる前に僕は死んでいた。「車に当たった"ので"、死んだ」わけでは決してない。論理なんてあてになりません。だって車に当たったことと死んだことは本来別の事象なんだもん。

 

この例えが非現実的非論理的だと感じたそこのあなた。あなたですよ。あなたはすでに「論理」に支配されている。よく考えてみてください、全部実際に起こり得る話じゃないか?あなたは想像の翼を奪われたイカロス。説明可能な簡単な事柄しか信用しようとしない。

 

ほんとはもっと豊かでした。「蛙がよく鳴いたから雨が降った」「大切なあなたから貰った品が壊れたからあなたは死んだのね…」論理の飛躍。飛躍。論理に支配されるどころか論理を完全に我が物にしていた。

 

どうしたら論理の支配から逃れられるのか。全てを接続させなければいい。全てを接続すればいい。

 

一つ一つの事象をきちんと一つ一つとして捉えられるか。または地球上のあらゆる一つ一つの事象を一つの大きな塊として捉えられるか。原因と結果などというはっきりしてるけどはっきりしないものにこだわらずに生きていけるんじゃないかと僕は思うんです。根拠はないけど。

 

「花瓶を落としたので、割れた。」

 

僕はこの一文を見ると気持ち悪くなります。